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メダラについてつらつら考える
「メダラ」。ファンの間で意見が割れる問題作。私はこれが「ビョークだ」と意識して聴いた初めてのアルバムだったから、ずっと前からファンだった人達の一種がっかりした気持ちは味わっていない。しかしその後「ヴェスパタイン」を聴いて、「これはがっかりしたって無理はないな」と感じた。「ヴェスパタイン」はアルバム全体が全て小さく今にも壊れそうで、それでいてしっかりとビョークの内面を描き出している。「メダラ」にはそういった、アルバム全体を貫く柱の様なものが欠けているように思える。全てのトラックがほぼ声のみで表現されている、という一貫性があるにもかかわらずだ。
 ただ、それは本当の意味での一貫性ではない。どんな楽器を使っても同じ事を表現することは可能だと思う。ということは、同じ楽器を使っても違う事を表現できるという事だ。そしてそこに全体を貫く柱がなかった場合、鳴っている音は同じでも何となくバラバラな印象を受けてしまうのではないか。その対極にあるのがセカンドアルバム「ポスト」だ。収録された曲のジャンルも楽器もほとんどバラバラであるにも関わらず、アルバム全体に何らかの一本の筋が通っている。
 ただ、往々にして収録曲全体で語るアルバムは一曲一曲が没個性になりやすい(そういう意味では『ホモジェニック』は白眉だ)。「ヴェスパタイン」もシングルカットされた「ヒドゥン・プレイス」、「コクーン」、「ペイガン・ポエトリー」、シングルになる予定だった「イッツ・ノット・アップ・トゥ・ユー」以外の曲はやや個性に欠け(シングルになるのはキャッチーな楽曲が多いため当然の結果ではあるが)、私には同じに聴こえてしまうところもある。対照的に「メダラ」には個性的で、いわゆる「キャラ立ち」している曲が多い。つまりシングル向きということだ。そしてそれが「メダラ」に一貫性がないと感じる理由のひとつであるように思える。
 思うに「メダラ」は「音遊び」なのだ。例えばアクリル絵の具で絵を描く際に下地を作るのだが、これがとても楽しい。デコボコや引っかき傷の様な質感を作り出したり、たくさんの色を滲ませたり、流したり、とそれだけで十分になってくる。そして絵の具遊びに夢中になりすぎて主題を見失うということはままある。自分の表現したい事が表現手段に取って食われてしまっては元も子もないのだ。表現手段は主題ではないのだから。「メダラ」で感じる一貫性の不在はこれと似ている。「駄作」と言い切る勇気も度胸もないが、「傑作」と持ち上げる程でもないと心の底の正直なところが言っている。ただ私はこのアルバムは好きだ。好きである事は傑作である事と必ずしもイコールではないと分かった上で聴いている。
 ついでに言うと「メダラ」の後の「拘束のドローイング9」のサントラでは、一貫性の柱が帰ってきている。これはおそらくサウンドトラックという制約の多い楽曲だからだろう。とはいえ今までのアルバムも十分にひとつのコンセプトを貫いていたから、このあともそういう作品をリリースしてくれると思っている。
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テーマ:女性アーティスト - ジャンル:音楽

【2007/01/05 14:01】 | ビョーク | コメント(0) |
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